団体名にある “ビルマ” は、タイ、インド、中国、バングラデシュ、ラオスと国境を接する東南アジアの国家、現在のミャンマーのかつての国名。1989 年、前年にクーデターを起こして成立した軍事政権により国名がビルマからミャンマーに改められました。現在、ミャンマーという国のことをよく知る日本人は少ないかもしれませんが、児童向け小説「ビルマの竪琴」や、過去 2 回にわたってこの小説を原作に制作された映画を通して、ビルマという名前に馴染みのある人は少なくないのではないでしょうか。
一般社団法人日本ビルマ救援センターは、昨年、一般社団法人としてスタートした新しい法人ですが、過去 35 年間にわたり任意団体としてこの国で人道支援や自立支援を続けてきた団体です。
今回のスポットライトは、昨夏、現地を訪問してきた同センター代表理事の中尾恵子さんに、これまでの長い取り組みを振り返りながら、現在も内戦が続く中、迫害から逃れ避難民として暮らす人びとの様子を報告いただくとともに、団体の現在の活動についてご紹介いただきます。
1988 年、国軍クーデターにより発足した軍事政権に反対し民主化を求めて立ち上がった人々に対し、軍は苛烈な弾圧を加えました。これによって発生した数千人に及ぶ死傷者は一般市民や学生、僧侶とさまざまな立場の人々でした。当時、ビルマに滞在し、この惨事を目の当たりにした日系アメリカ人のケン・カワサキ氏とヴィサカさん夫妻による病院への募金活動が私たちの活動の原点で、組織的な活動はその後、ケン・カワサキ氏が奈良県内に日本ビルマ救援センターを立ち上げたことに始まります。私 (中尾さん) は当時、職場の同僚で団体メンバーだった米国人の英語教師から紹介されて 1997 年に参加しました。元々は国内在住の外国人による活動だったのですが、以降は日本人のメンバーも加わるようになりました。そして 2 年後の 1999 年に代表のカワサキ氏夫妻が日本を離れることになったため、私がその後を引き継いで現在に至っています。
2011 年にはいったん文民政権に戻ったものの 2021 年には再び軍が政権を奪取しました。軍事政権を批判し民主化を求める人々は現在も軍による弾圧を受けています。また少数民族への民族迫害政策や少数民族軍との戦闘により多くの人々が住み家や持ち物を失い、国内やタイとの国境地域に避難して苦しい生活を続けており、その数は 200 万人に達すると言われています。
こうした状況下、1988 年から長年、任意団体として難民、避難民(※)への支援活動を続けてきましたが、いかんせん、海外での支援活動ということもあって国内での知名度も高いとは言えませんでした。今後も活動を続けていくためには、もっと多くの方々にご支援いただけないかと感じていましたが、そのためには団体そのものの信用をもっと高めていく必要があると考え、昨年 7 月、一般社団法人化しました。
※ 本稿では、国境を越えて避難した人を「難民」、国境を越えずに避難している人は「避難民」と表現しています。
私たちの団体は国名がミャンマーに改められる以前からビルマという名前を団体名に使用しており、現在も特に名称を変更するということはしていません。軍事政権が改称したのは英語表記のみでビルマ語の国名は変わっていません。国連や国際関係機関はこの改称された英語表記を使用しており、日本政府も日本語の呼称をミャンマーに改めていますが、国内外のメディアなどでは、現在もビルマという呼称を使用しているところも少なくありません。そもそもビルマでは古くから口語的な「ビルマ」という呼称と文語的な「ミャンマー」という呼称が使い分けられてきており、ビルマという呼び方がなくなったわけではないのです。
避難民キャンプでは食料や衣料などの多くを、私たちを含めた NGO などからの援助に頼ってきました。また井戸やトイレなども整備されていない衛生状態の悪い中での生活を余儀なくされています。また、昨年 5 月にはサイクロンに襲われ、大きな被害を受けました。竹で作られた高床式の住居は建物の倒壊や屋根が飛ばされるなど、大変困難な状況が続いています。
2021 年のクーデター直後は国際社会もミャンマーの情勢、避難民支援などに大きな関心を寄せていましたが、2 年以上経過した今は、その関心もだんだん薄れてきているように感じます。これはわたしたちだけではなく、避難民の人たち自身も感じていることで、困難な中で「自分たちでやらなければならない。支援を待っているだけでは生活ができない」という意識も生まれてきています。こうした人たちの中では小規模な野菜の栽培や養豚などを行う動きも出てきています。ここには人々の自立しようという意欲とともに、国際社会からの支援への諦めのようなものも感じてしまいます。
センター創立以来 35 年間にわたり、困難な状況下で民主化運動を続ける人々、国軍と少数民族の武装組織との衝突などで土地を追われて難民や避難民となった人々などを物心両面で支援してきました。募金活動に始まった支援活動ですが、現在は、その他の活動にも取り組んでいます。
まず募金活動ですが、大学生、高校生、在日ビルマ人、有志の方々と一緒に、大阪と京都で毎月、街頭募金活動を行っています。京都は四条河原町交差点で行っています。この記事をお読みになられた皆さんも、募金を呼び掛けるのぼり旗をお見かけになったときはぜひご協力をお願いします。お寄せいただいた募金はすべてタイのカウンターパート (※) に送金し、現地で食料品などの物資に換えて避難民に届けています。ミャンマー当局に拘束される危険も伴いますが、彼らはビルマ側の国境の村へも越境して活動しています。
※ カウンターパートとは : ビルマ・タイ国境近くの集落には、ビルマから多くの人々が難を逃れて暮らしています。タイ国内にはこうした人々の生活を支援する自助団体や、子どもたちの教育支援に取り組んでいる学校などが存在しており、さまざまな人道支援の活動を行っています。彼らは国境を越えてビルマ国内の避難民に支援物資を届けています。日本からは寄付金を物資に換えてこうした避難民に直接送り届けることができないため、これらの団体に送金し、現地で必要な食料や生活物資などを調達して届けてもらっています。
国内での活動としては募金活動の他に、国際フェスティバルや各種イベントに出店したり、講演会でビルマの現状について話をしたりすることを通じて、日本の皆さんにビルマ問題についてご理解をいただこうと活動しています。
長年続けている活動には、「タイ・ビルマ国境ツアー」もあります。私たちは昨年 8 月 20 日から 9 月 13 日の間、タイ側の国境の町を訪問してきました。センター発足当時から毎年、ビルマとタイの国境の町を訪れ、現地での支援活動を行ってきましたが、1999 年からはセンターのメンバー以外からの参加も募ってツアーを実施しています。コロナで現地訪問ができなかった 2 年間を除いて毎年、学校の春休みと夏休みの時期に開催しており、前回で 39 回を数えます。前回のツアーには「同志社大学難民支援プロジェクト Re-ING 」に所属する学生の皆さんも参加してくださいました。避難民キャンプを訪れて、そこに暮らす人びとの声を直接聞いたり、私たちのカウンターパートとして支援活動に取り組んでくれている現地の団体などとの交流を通じて、ビルマ問題についての理解を深めたり、情報交換や今後の支援活動についての検討などを行いました。
また単に日常生活物資を送り届けるだけでなく、現地の人々の自立支援の活動も重要な活動です。前にご紹介したように避難民の人たちの間でも自活のための活動を行おうという動きが出てきています。現地ではこれを支援するための自立プロジェクトが動き出しており、現在は養豚に取り組んでいます。女性たちからは機織りをしたいとの声も上がっており、これから私たちもその期待に応えて、機織り小屋の設置や機織り機購入の支援を行っていこうとしています。
昨年 10 月後半からミャンマー軍と少数民族勢力の戦闘が激しくなり、カヤー州国内避難民を支援するカウンターパートから食糧や毛布、薬などの緊急要請が続々と届いています。しかし、国連や国際社会からの人道支援はこういった国内避難民には届いていません。私たちのような草の根の活動が、ビルマ国内避難民への人道支援を支えています。BRCJ の活動資金は私たちの活動を理解し、寄付を送ってくださる支援者からのご寄付と大阪、京都などで行う募金のみです。200 万人を超える国内避難民に対して、これは「大海の一滴」のような活動ですが、これからも「ビルマの人々が再び故郷に戻り安心して暮らせる日まで」続けていきます。みなさまのご協力を心からお願い申し上げます。
一般社団法人日本ビルマ救援センター 代表理事 中尾恵子一般社団法人 日本ビルマ救援センター 代表理事
団体名 | 一般社団法人 日本ビルマ救援センター (Burmese Relief Center Japan) |
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代表者 | 中尾 恵子 |
メール | brcj@syd.odn.ne.jp |
Web サイト | http://www.brcj.org/ |
団体名 | 京都市市民活動総合センター(運営:NPO 法人 きょうと NPO センター) |
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名前 |
近藤 忠裕 事業コーディネーター |