1970 年代のニューヨーク・ブロンクス。貧困とギャングの抗争が日常化するこの街で、若者たちは暴力とは別の出口を探していた。
音楽が鳴り、人が集まる場所が、その受け皿のひとつになっていく。DJ がレコードの同じリズム部分を何度もつなぎ直し、会場にビートを流し続ける。その音に合わせて、ダンサーが円の中心に出て動きを見せ、次の人がそれを受け止め、また別の動きで返していく。これが「ブレイキン(※ブレイクダンス)」の始まりだった。
背景には、かつてギャング組織のリーダーでもあった アフリカ・バンバータが「殺し合いではなく、ダンスや音楽などの創造的な方法で解決しよう」と呼びかけたことにあったといわれている。ダンスの応酬のなかで、言葉を超えた対話が生まれていく。「ブレイキン」は、技を競い合いながらも、同時に関係を編み直すための手段でもあった。
その文化はヒップホップとともに広がり、やがて海を越えて、日本にも届いた。
※ 正式な競技名は「ブレイキン」ですが、本記事では多くの人にとって馴染みのある「ブレイクダンス」という呼び方を主に用います。競技として表現するときのみ「ブレイキン」と表記します。
(記事執筆:土坂のり子)
大塚さんがブレイクダンスに出会ったのは、まだそれが日本で広く理解されているとは言いがたい時代。学校のなかで「学びたい」と思えるものに出会えなかったという大塚さんにとって、ブレイクダンスは、はじめて本気で追いかけたいと思えたものだった。
当時、路上や公園で踊る若者たちは、しばしば好奇の目や警戒の目にさらされた。練習をしていれば、近隣から通報され、警察が来ることもあった。特別なスタジオがあるわけでもない。場所を移し、また移し、それでも音楽が流れれば身体を動かす。うまくなるため、自分に負けないため、ただひたすらに練習を続けた。
それから、状況は少しずつ変わっていった。 ダンスは小学校の体育の授業に取り入れられ、子どもたちが学校で踊る光景もあたりまえになった。2024 年のパリオリンピックでは、「ブレイキン」が正式競技として採用され、世界的な注目を集めた。いまでは子どもにも大人にも、とても身近な存在になっている。
大塚さんが所属していた「BodyCarnival」は、2005 年に結成された京都発のブレイクダンスチームだ。国内外の大会で結果を残し、世界の第一線で踊り続けてきた。京都を拠点に活動しながら、ストリートから世界へと挑戦を重ねてきたその歩みは、日本のブレイクダンス史を支える大きな存在とも言える。
そうした歩みの途上で、「BodyCarnival」にとって立ち止まって考える時間になったのが、2011 年の東日本大震災だった。
大きな出来事を前に、メンバーのあいだで、「いま起きていることに対して、自分たちはどう関われるのか」という思いが自然と交わされるようになったという。
寄付やチャリティイベントといった選択肢も話題に上った。しかし、集めたお金がどのように使われるのか、自分たちの目で確かめることはできない。見えない先へ託すことに、どこかためらいもあった。
同時に、そもそも「お金を寄付する」という方法が、自分たちに合っているのかという迷いもあった。ダンスで生計を立てているわけではなく、余裕があるわけでもない。それでも何かをしたい。そのとき、自分たちにできることとは何か。そんな自問自答が続いたという。
話し合いを重ねるなかで、改めて確かめられたのは、ごくシンプルな感覚だった。自分たちはダンサーであり、ダンスとともに時間を重ねてきた、という事実である。
踊ること。
積み重ねてきた経験を、誰かと共有すること。
それなら、自分たちにもできるかもしれない。そんな実感が、少しずつ形になっていった。

では、どこで、誰に、どうやって。
震災をきっかけに生まれた問いは、必ずしも「被災地で何かをする」という方向へは向かわなかった。むしろ、自分たちの足元を見つめ直すなかで浮かび上がってきたのは、ダンスをしたくても環境がなく、機会に出会えない子どもたちの存在だった。
遠くへ何かを届けることは難しいかもしれない。けれど、目の前にいる子どもたちと踊ることならできる。積み重ねてきた経験を、直接手渡すことならできる。そう考えたとき、活動の輪郭が少しずつ見えてきた。
まずは話を聞いてもらおうと、京都市内の区役所に足を運んだ。すると、児童養護施設への打診を提案される。区役所は府内すべての施設に声をかけてくれたという。そして、そのうち二つの施設が応じてくれた。
こうして、BodyCarnival の OB・OG が立ち上げた「Sum the Sky(以下、サムスカ)」が、施設を訪ね、子どもたちとともに踊る取り組みが始まった。
現在、サムスカは京都府内にある二つの児童養護施設で、月に 2 回ずつダンスレッスンを続けている。
サムスカ全体としては、ほぼ毎週どこかの施設でレッスンを行っていることになる。
レッスンを担うのは 3 人のメンバーで、中心となって関わっているのが大塚さんだ。両方の施設に足を運び、毎週子どもたちと顔を合わせている。
特別なスタジオは使わず、施設内の空きスペースを借りる。その日集まった子どもたちの様子を見ながら、準備運動から基礎、応用へと進めていく。年齢も経験もばらばらで、内容は細かく決め込まず、その場の空気を見ながら組み立てている。
ダンスの時間には、施設の職員も場に入り、子どもたちの様子を見守る。必要に応じて声をかけ、ときには一緒に身体を動かすこともある。
回を重ねるうちに、技を磨いていく子どもも現れた。なかには、大塚さん自身が驚くような技に挑戦する子もいる。できた瞬間には、施設全体で「すごい」「やった」と声が上がる。
レッスンに子どもが一人も来なかった日は、これまで一度もない。しかし、最初からこの形ができていたわけではなかった。

訪問ダンスレッスンを始めてしばらくした頃、大塚さんは自分の価値観を揺さぶられる出来事を経験する。
現役時代の大塚さんにとって、ダンスとは「練習して、積み重ねて、成功させるもの」だった。
「ショーケース(発表会)に出るなら、ここまではやらなあかん。」
毎回練習に来て、振りを揃え、きちんと仕上げる。そうして初めて舞台に立つ資格がある。そんな感覚を、疑うことなく持っていた。
ところが、施設の先生たちの考えは違っていた。
ショーケースを前にしたある日、施設の玄関先で話し合いになった。全員で完成度の高い舞台をつくることよりも、「みんなで舞台に立つこと」を大事にしたいのだ、と先生たちは言った。
「ショーケースに出るからには、これくらい頑張ってへんかったら出られへん」
「練習に毎回来てへん子は、舞台には立たれへん」
そう伝えた大塚さんに、先生たちはすぐに言葉を返した。
「振りを覚えてきてない子がいてもいいやん」
「ここじゃないと、こういうショーケースはできへん」
声は決して穏やかではなかったという。
子どもたちを思う気持ちが、そのまま言葉に乗っていた。
施設の前での立ち話だった。けれど、その場の空気は明らかに熱を帯びていた。互いに一歩も引かず、「僕はこう思う」と真正面から言葉を交わした。
そのとき大塚さんが強く感じたのは、先生たちの「本気」だったという。「子どもたちを守り、育てようとする覚悟のようなものが、言葉の端々から伝わってきた。」と語ってくれた。

取材を通してこのエピソードを聞き、私は「これは大人同士の本気のぶつかり合いだったのだ」と感じた。
相手をねじ伏せるためではなく、それぞれの立場や信念を語り、受け止め、返し、互いに理解を深めていく。
その「本気の言い合い」は、どこか「ブレイキン」のセッションに似ているように思えた。
この経験を通して、サムスカの中で、ダンスの意味は少しずつ広がっていく。
ダンスは、成功させるためだけのものではない。音に身を委ねて体を動かしたり、誰かと同じ舞台に立ったり、「今日は楽しかった」と思える瞬間を重ねていくこと。
そのわずかな変化こそが、子どもたちにとっての「かけがえのない一歩」になっていく。
そうした気づきが、サムスカの活動の輪郭を、 静かに、しかし確かに変えていった。
取材を通して、私が強く感じたのは、サムスカのダンスレッスンの場にあふれる子どもたちの笑顔は、施設だけでも、サムスカだけでも、生まれなかっただろうということだ。
施設の職員は、サムスカの Instagram に投稿された活動報告会の動画の中で、こう語っている。
さまざまな家庭環境のなかで育ち、苦労を重ねてきた子どもたちがいること。
そのなかで、「とにかく笑っていてほしい」という思いを持ち続けてきたこと。
そして、訪問ダンスレッスンでは、子どもたちが自然と笑顔になっているのだということ。
ショーケース直前の練習では、緊張で体が固まり、思うように動けなかった子どもが、本番では見事に踊り切った。
その姿を前にして、「この子たちはできるんだ」と、自分自身が学ばせてもらったのだとその職員は語っていた。

サムスカは、練習を重ねれば前に進めるというブレイクダンスの文化を信じてきた。一方で、施設の職員たちは、その日そのときの子どもの状態を受け止めようとしている。
成長の可能性を信じる視点と、今ここにいる存在を支える視点。
その二つは、一度ぶつかった。けれど、言葉を交わし、立ち止まり、互いを理解しようとする時間を重ねるなかで、少しずつ混ざり合っていった。
私は中間支援の現場で、「協働」「連携」「共創」という言葉を日常的に使っている。だが、その言葉が指し示すものは、決して穏やかな合意形成だけではない。本気で向き合い、ときにぶつかり、相手の背景や信念を知ろうとするプロセスそのものだ。
サムスカと施設の関係もまた、そうして育まれてきたのだと思う。
「うまくできるかどうか」だけでは測れない時間の価値が、少しずつ共有されていった。できない日があってもいい。来られない日があってもいい。それでも、来たときには、ここに居ていい。
その関係性の積み重ねが、「いつも子どもたちが自分らしくいられるダンスレッスン」を形づくっていったのだと、私は受け止めている。
サムスカの活動を追っていくと、「何をしている団体か」よりも先に、「どう在ろうとしているか」が浮かび上がってくる。
ブレイクダンスという表現の文化を軸にしながら、施設の職員と向き合い、言葉を交わし、ときに立ち止まりながら、一人ひとりの子どもの存在をどう受け止めるかを考え続けてきた。その時間の積み重ねの先に、「いつも子どもたちが自分らしくいられるダンスレッスン」がある。
それは、プログラムの成果というより、関係が育ってきた証のようにも見える。
支援する側/される側、教える側/教えられる側といった枠組みでは捉えきれない実践が、地域のなかで息づいている。

40代になった大塚さんは、いまも日々筋トレを続けている。それは競技のためでも、評価のためでもない。
「いつまでも、かっこいいと思われる自分でいたいんです」
そう語る表情には、少し照れたような笑みが浮かんでいた。
活動報告会では、こんな言葉も口にしている。
「僕らは、ただダンスが好きなだけなんです。ダンスを通して得てきたことを、楽しいと思いながら続けてきただけ。その楽しさを次の世代に渡していくことは、大義でもあるけれど、特別な覚悟を持ち出すほどのことでもない。あたりまえの延長なんです。」
一方で、そのあり方が、誰にとっても参加しやすい形になっているわけではないことも、大塚さんは自覚している。活動を広げようとすれば、資金や体制といった現実的な課題が立ちはだかる。けれど、効率や合理性を強く求めはじめると、どこかでいまのリズムと噛み合わなくなることがある。続けられるのは、結果として、それを「やりがい」だと感じられる人になる。
「そうなってしまうのは、申し訳ない気持ちもあります」
そう語りながらも、ダンスが好きだという感覚だけは、手放さずにここまで来た。
無理に広げようとするわけでもない。誰かに続けることを求めるわけでもない。ただ、自分が「楽しい」と感じてきたものに、今日も正直であろうとする。
その在り方が、子どもたちに少しでも伝わればいい。大塚さんは、そう願いながら、踊り続けている。
Sum the Sky代表/BodyCarnival OB/精神科看護師
2011年より児童養護施設へのブレイクダンス訪問活動を継続。
※ 個人の肩書や所属する団体は、執筆時点 (2026年2月) の情報です。
| 団体名 | Sum the Sky |
|---|---|
| 代表者 | 大塚公平 |
| 団体について |
Sum the Skyは、 |
| メール | sum.the.sky@gmail.com |
| https://www.instagram.com/sum_the_sky |
| 名前 |
土坂のり子 京都市市民活動総合センター 副センター長 |
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